人気ブログランキング | 話題のタグを見る

犬神狂介の【狂人日記】

kyoujin.exblog.jp ブログトップ

ハウルの動く城

【25点】

●宮崎駿監督作品。
原作は、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』。
見終わってしばらくは、妻との間で「(低い声で)待たれよ…!」ごっこが流行った。
コレは、アメリカでは、めちゃめちゃ評判が悪かった作品だ。
概ね「映像美は素晴らしいが、他に見るべきものは何もない。特に後半、物語にすらなっていない」とゆー様なモノで、物凄い叩かれ方だった。
「そんなにヒドイのか~?」と、覚悟して見たんだが…ソコまでヒドイ作品とは思えなかった。
わざわざ「ハリー・ポッター」ブームに合わせて、世界市場を見据え、イギリスの児童文学を原作にしてまで、思いっきり「狙った」作品だったんだろーに…大ハズレだったワケだ。
『もののけ姫』も、アメリカではゴミのよーに扱われていたが…。
おそらく、『千と千尋の神隠し』だけが、アメリカ人にとって(とゆーよりも、アメリカの批評家にとって、と言った方がいいのかも知れないが…)ツボだったのだろう。
宮崎監督が、アレと同じよーな作品をまた作るとは考えにくいので、今後、宮崎作品がアレ以上に評価されるコトはないのではないか、と思われる。
●まぁ、ストーリーはともかく…ハウルはあんなヘンな城まで作って、「徴兵忌避」をしてたんだ…と思うと、ちょっと親近感が湧く。
しかし、基本的に彼はコドモで、「ネバーランドへ行けなかったピーター・パン」みたいな存在だ。
「戦争反対」というよりも、もっと単純に「コワいから逃げている」とゆーカンジだ。
火の悪魔、かかし、使い魔の犬、荒地の魔女、コドモ…登場人物はみな個性的で魅力があり、キャラクターもしっかり立っているのに、本当に勿体ない作品だ。
結局、ソフィーの呪いは解けたんだろーか?
なぜ、ソフィーは若くなったり、歳とったり、コロコロ変わるんだろーか?
他のキャラクターの素性は、みなそれなりに描かれているのに、コドモだけ説明がなかったよーな気がするが…
アレは、一体、誰だったんだ?
『ピーター・パン』のロストボーイズみたいな存在なのか?
ラストでサリマン先生と隣りの国の王子は「そんじゃ、戦争でも終わらすか~」みたいな発言をするが…
だったら、最初から戦争させんなよ~!!
ハウルが変身魔法の使い過ぎで、「元に戻れなくなる」とゆーエピソードにしても、そもそも鳥になって何をしていたのか?
「逃げ回っていた」とゆー設定だったみたいだが、逃げるために、敵を偵察する目的だけだったら、「元に戻れなくなる」ほど変身する必要はなかったのではないだろーか?
ハウルは凄い実力の持ち主なのに、「使い魔」はいないのだろーか?
ソフィーの能力についての描写が少な過ぎて、なぜ日常では目立たない没個性的だった人が、非日常に放り込まれた途端、生き生きとして、まわりの人々を魅了する存在に変わったのか、理解不能だ。
●整理すると…ハウルは「現実」がコワい。
今まで、彼は自分が「現実」から逃避するためだけに魔法を使って来た。
彼にとって、「死」もまた、コワい「現実」の1つの形だったため、肉体が傷つけられても死なないよーに、自分の心臓を取り出して、隠してしまった。
心臓を失ったハウルは、事実上、不死の存在となったものの、引き換えに心を失った。
サリマン先生が看破したよーに、ハウルは現実から目をそむけ、イヤなこと、コワいことから逃げるとゆー利己的な目的にのみ、魔法を使い、せっかくの才能をムダにしている。
心を失ったハウルは、徐々に変身魔法の使い過ぎにより、バケモノ化していった…!!
…とゆーコトなのだろうが、あまりにも舌っ足らずな描き方なので、ムダにわかりづらい。
●また、「戦争」という存在が、この作品には暗く大きな影を投げかけているが、単にハウルの「不安の象徴」でしかなく、ソレがどんなモノで、なぜいけないのか?といった本質が語られるコトは一切ない。
だとしたら…中途半端にしか描けないのであれば、
とゆーよりも、そもそも描く気すらないのであれば、最初から、出す必要がなかったのではないか?
自分のオリジナルの作品でならばともかく、他人の作品の名を借りて、そんなコトをする必要が、一体、どこにあったのだろうか?
●原作が非常に評価が高いだけに、この作品を「一個の物語」として評価すると、どーしても最低の評価にせざるを得ない。
論理的思考を尊ぶ国で、このよーな「なんちゃって作品」は通用しない、とゆーコトだろう。
逆に、「原作への冒涜」ととられても仕方がないくらい、この作品は原作と違う。
おそらく、ハリウッドだったなら…この脚本は没になり、企画自体が消滅していたコトだろう。
この作品は、「破綻」するところまでにも達していないのだ。
なぜなら、プロとして「語られねばならない物語」が「物語れていない」からだ。
つまり、ここには根本的に「物語が存在しない」のである。
物語以前の、「物語の原型」のよーなモノしかない。
コレは、いわば「習作」で、画家で言うなら「木炭によるデッサン」のよーなモノに過ぎない。
「一個の完成された作品」として、世に出せるレベルではないというコトだ。
ハッキリ言って、宮崎駿はもう、いーかげん、自ら脚本を書くのはやめるべきだ。
細々と、個人の道楽で製作を続ける…とゆーのならともかく、このよーに世界規模で公開する巨大プロジェクトで、いつまでもこんなコトをやっていてはいけない。
ハリウッドで、自分の作品の脚本を自ら書く監督は、ごくわずかだ。
ソレは、書けないからではない。
脚本は脚本のプロがいるのだ。
一流のプロがいるのに、あえて素人が危険を犯す必要はない。
極めて合理的な話である。
そして、監督が気に入らなければ、何度でも脚本はボツにされる。
何のために莫大なカネと時間を費やして、彼等が原作を探し、映画化権を買い、脚本を練るのか?
もう一度、よく考えてみる必要があるのではないだろうか?
●ちなみに、原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、たまたま出会った1人の子供に「動くお城の話を書いて」と言われ、「じゃあ、書いたら読んでね?必ず本の最初のページに、あなたの名前と感謝の言葉を入れるから」と約束をしたらしい。
しかし、彼女は、その子の名前を書いた紙を失くしてしまい、今でもその子を探している、という。
心当たりのある方は、ダイアナさんまで、ご一報ください。

ハウルの動く城_d0012442_19382328.jpg

by inugami_kyousuke | 2005-12-04 10:00