新編 中原中也全集 第3巻 翻訳
いや…
ホントは、こんな全集なんて大袈裟なモンを引張り出す気はなかったんだが、
カンタンに入手出来る中原中也の詩集には、肝心のランボオの翻訳詩が載っていなかったんで、仕方なく、こんな分厚い本をひもとくハメになっちまった。
正直、中原中也は、俺の好きな詩人の1人だ。
でも、今回は翻訳詩だし、
も~いいかげん、小林秀雄、堀口大學、金子光晴…と3人も読んで来て、
小林訳と堀口訳が、両極端を描き尽くしている感があり、「これ以上、何人読んでもこの結果が揺らぐコトは決してあるまい」と思っていた。
でも、一応、中原中也が訳しているんなら、読んでおくべきだろう…とゆー、軽~い気持ちで手に取った。
だがっ!!
俺は、根本的に間違っていたよーだ。
マジで、中原中也は天才だ。
「小林秀雄、堀口大學、金子光晴組」との3対1の変則マッチでも、楽勝~!ってカンジだ。
3人の必死の攻撃は、カスリもしね~。
「才能のある人」と「ない人」の差が…
これ程までに違うとは、夢にも思わなかった!
『のだめカンタービレ』で、千秋やジャンにオーラが見えたよーに、
中原訳の詩の1音1音が、文字通り、光輝いて見える。
「努力では決して辿り着くコトの出来ない世界」が、ここにある。
まさに、「雲泥の差」とは、この事だ。
そして、おそらく…
中原中也の翻訳は、ランボオの原文をも超えている。
少なくとも、俺はそう思う。
金子光晴訳 『恥辱』
一思いに、あの脳味噌を、
刃物でえぐり取ってしまわぬかぎり、
妙に脂ぎって、精力的な、生っ白いあのお荷物野郎は、
いつになったって、気分があたらしくなりやしない……。
(ああ、あいつの鼻、あいつの唇、耳、
それから腹も切りこまざかなくては。
両方の脚も、切って捨てるんだ!
どうだ。そうしたらすばらしいぜ!)
だがな。嘘いつわりなしに、僕は、
あいつの首をちょん切り、
あいつの腹へ小石をつめこみ、
臓腑を焔であぶりたいと思いこんでる。
それを断行しないかぎり、あの厄介な餓鬼めら、
おろかなけだものは、
むほん気と、たくらみを、
一瞬だった止めやしない。そして、
モンロッシューの臭猫(においねこ)のように
そこらいちめん、臭気をまきちらす!
―――神さま! 奴が死ぬときには、
どんな感謝のお祈りをあげたもんでしょうかなあ……。
中原中也訳 『恥』
刃(は)が脳漿を切らないかぎり、
白くて緑(あを)くて脂ぎったる
このムツとするお荷物の
さつぱり致さう筈もない……
(あゝ、奴は切らなけあなるまいに、
その鼻、その脣、その耳を
その腹も! すばらしや、
脚も棄てなけあなるまいに!
だが、いや、確かに
頭に刃、
脇に砂礫(こいし)を、
腸に火を
加へぬかぎりは、寸時たりと、
五月蝿(うるさ)い子供の此ン畜生が、
ちよこまかと
謀反気やめることもない
モン・ロシウの猫のやう、
何処も彼処も臭くする!
―――だが死の時には、神様よ、
なんとか祈りも出ますやう……
詩でも、小説でも、映画でも、ドラマでも、音楽でも、絵画でも、漫画でも…
およそ媒体は何であれ、最終的には受け手の好みだと思うのだ。
価値観とは、純粋かつ、絶対的なモノであり、
他人に押し付けたり、また他人から押し付けられたりする類いのモノではない。
「人それぞれ」であり、「好き好き」で良いのだ。
従って、ここで、俺は中原中也の芸術性を肯定し、小林秀雄、堀口大學、金子光晴らのそれを否定する気はない。
どの1人をとっても、それぞれに素晴らしい文学者だと思う。
が!
こと「訳詩」とゆー作業に関しては、中原中也の作業が、他者とは比較にならぬ程、圧倒的に抜きん出ているよーに思える。
上に挙げた2つの詩は、いずれも同じ、アルチュール・ランボオ『イリュミナシオン』中の1篇を訳したモノだ。
両者を比較すると…
中原中也の選ぶ言葉の1つ1つが、おそろしいまでに的確であるコトが良くわかる。
まるで、ナイフのよーに研ぎすまされた言葉たち。
射的のまとにたとえるならば…
中原中也の作品は、全弾、ド真ん中に命中しているのに対し、
金子光晴の作品は、まとのあちこちにバラついているよーに思える。
ココで行なわれている作業は、
フランス語(ランボオの原文)を日本語に置換する作業だ。
原文→日本語。
だが、詩の翻訳の場合…小説と違って、単語を対比させて意味を伝えればソレで良い、とゆーワケではない。
原文→日本語、では充分ではないのだ。
原文→日本語→詩。
でなくては、ソレはすでに詩ではない。
ただ翻訳しただけではダメなのだ。
意味を伝え、なおかつ、その言葉が、詩の高みに達していなくてはならないのだ。
おそるべし!中原中也…
ホントは、こんな全集なんて大袈裟なモンを引張り出す気はなかったんだが、
カンタンに入手出来る中原中也の詩集には、肝心のランボオの翻訳詩が載っていなかったんで、仕方なく、こんな分厚い本をひもとくハメになっちまった。
正直、中原中也は、俺の好きな詩人の1人だ。
でも、今回は翻訳詩だし、
も~いいかげん、小林秀雄、堀口大學、金子光晴…と3人も読んで来て、
小林訳と堀口訳が、両極端を描き尽くしている感があり、「これ以上、何人読んでもこの結果が揺らぐコトは決してあるまい」と思っていた。
でも、一応、中原中也が訳しているんなら、読んでおくべきだろう…とゆー、軽~い気持ちで手に取った。
だがっ!!
俺は、根本的に間違っていたよーだ。
マジで、中原中也は天才だ。
「小林秀雄、堀口大學、金子光晴組」との3対1の変則マッチでも、楽勝~!ってカンジだ。
3人の必死の攻撃は、カスリもしね~。
「才能のある人」と「ない人」の差が…
これ程までに違うとは、夢にも思わなかった!
『のだめカンタービレ』で、千秋やジャンにオーラが見えたよーに、
中原訳の詩の1音1音が、文字通り、光輝いて見える。
「努力では決して辿り着くコトの出来ない世界」が、ここにある。
まさに、「雲泥の差」とは、この事だ。
そして、おそらく…
中原中也の翻訳は、ランボオの原文をも超えている。
少なくとも、俺はそう思う。
金子光晴訳 『恥辱』
一思いに、あの脳味噌を、
刃物でえぐり取ってしまわぬかぎり、
妙に脂ぎって、精力的な、生っ白いあのお荷物野郎は、
いつになったって、気分があたらしくなりやしない……。
(ああ、あいつの鼻、あいつの唇、耳、
それから腹も切りこまざかなくては。
両方の脚も、切って捨てるんだ!
どうだ。そうしたらすばらしいぜ!)
だがな。嘘いつわりなしに、僕は、
あいつの首をちょん切り、
あいつの腹へ小石をつめこみ、
臓腑を焔であぶりたいと思いこんでる。
それを断行しないかぎり、あの厄介な餓鬼めら、
おろかなけだものは、
むほん気と、たくらみを、
一瞬だった止めやしない。そして、
モンロッシューの臭猫(においねこ)のように
そこらいちめん、臭気をまきちらす!
―――神さま! 奴が死ぬときには、
どんな感謝のお祈りをあげたもんでしょうかなあ……。
中原中也訳 『恥』
刃(は)が脳漿を切らないかぎり、
白くて緑(あを)くて脂ぎったる
このムツとするお荷物の
さつぱり致さう筈もない……
(あゝ、奴は切らなけあなるまいに、
その鼻、その脣、その耳を
その腹も! すばらしや、
脚も棄てなけあなるまいに!
だが、いや、確かに
頭に刃、
脇に砂礫(こいし)を、
腸に火を
加へぬかぎりは、寸時たりと、
五月蝿(うるさ)い子供の此ン畜生が、
ちよこまかと
謀反気やめることもない
モン・ロシウの猫のやう、
何処も彼処も臭くする!
―――だが死の時には、神様よ、
なんとか祈りも出ますやう……
詩でも、小説でも、映画でも、ドラマでも、音楽でも、絵画でも、漫画でも…
およそ媒体は何であれ、最終的には受け手の好みだと思うのだ。
価値観とは、純粋かつ、絶対的なモノであり、
他人に押し付けたり、また他人から押し付けられたりする類いのモノではない。
「人それぞれ」であり、「好き好き」で良いのだ。
従って、ここで、俺は中原中也の芸術性を肯定し、小林秀雄、堀口大學、金子光晴らのそれを否定する気はない。
どの1人をとっても、それぞれに素晴らしい文学者だと思う。
が!
こと「訳詩」とゆー作業に関しては、中原中也の作業が、他者とは比較にならぬ程、圧倒的に抜きん出ているよーに思える。
上に挙げた2つの詩は、いずれも同じ、アルチュール・ランボオ『イリュミナシオン』中の1篇を訳したモノだ。
両者を比較すると…
中原中也の選ぶ言葉の1つ1つが、おそろしいまでに的確であるコトが良くわかる。
まるで、ナイフのよーに研ぎすまされた言葉たち。
射的のまとにたとえるならば…
中原中也の作品は、全弾、ド真ん中に命中しているのに対し、
金子光晴の作品は、まとのあちこちにバラついているよーに思える。
ココで行なわれている作業は、
フランス語(ランボオの原文)を日本語に置換する作業だ。
原文→日本語。
だが、詩の翻訳の場合…小説と違って、単語を対比させて意味を伝えればソレで良い、とゆーワケではない。
原文→日本語、では充分ではないのだ。
原文→日本語→詩。
でなくては、ソレはすでに詩ではない。
ただ翻訳しただけではダメなのだ。
意味を伝え、なおかつ、その言葉が、詩の高みに達していなくてはならないのだ。
おそるべし!中原中也…
by inugami_kyousuke
| 2008-05-14 23:49
| 文学