びぶりお・まにあの詩


by inugami_kyousuke

グーグーだって猫である(1)

大島弓子の『グーグーだって猫である』第1巻を読んだ。
第12回手塚治虫文化賞短編賞受賞作品らしい。
別に、受賞作品だから読んだワケじゃねーが。

面白かった。
とゆーより、素晴らしかった。

大島弓子を読むのは、スゲー久しぶりだ。
たぶん、『綿の国星』以来だと思う。
他の作品も、何作か読んだと思うけど…
「ダメだ。こんな女の子の世界…俺にはわかんねー。戦わね~し!」
と思って、ひたすら敬遠していた。
『綿の国星』だけは、好きで、何度も読んだけど。

『グーグーだって猫である』も、実はもっと以前から、存在は知っていた。
でも、あまりに絵が今までの大島弓子の作品と違っていたので、迷っていたのだ。
今回、映画版を見るにあたって、「やっぱ、原作も読んどこ~」と思って、読んだ。

読んで正解だった。
元々、この手のエッセイ漫画とゆージャンルは、妻が好きなので、結構、俺も読んでいる。
が、この作品は、それらの作品とは、明らかに一線を画しているよーに思える。
エッセイ漫画の特徴は、
1)絵がラフである。
2)主人公(作家)の日常が赤裸々に描かれる。
3)有名作家が産休等の期間中に、描くモノと、このジャンルを専門とする作家が描くモノがある。
大島弓子も、悪性腫瘍の手術後のリハビリ中に、このジャンルに参入したよーだ。
このジャンルは、有名作家が描いたからと言って、必ずしも面白いとは限らない。
「専門の作家」たちは、それなりに覚悟をキメて描いているからだ。
「日常を赤裸々に描く」とゆーコトは、すなわち「私生活を切り売りする」コトと同義だ。
切り売りするモノがなくなれば、自ら新しく作り出してまで、切り売りを続ける。
売るモノが無くなれば、同時に、彼等の存在意義もまた消失するからだ。
単なる「ぶっちゃけ話」程度では、10年も食っていけない。
さらに一歩も二歩も踏み込んで、「えっ!ソコまで描くのか~!?」ってトコまで描かないと、作品として成立しない、実に過酷な世界だ。

が…
この作品は違った。
「有名作家のリハビリ」であったり、「余技」であったり、「ぶっちゃけ話」「暴露話」であったり…
そーしたモノではない。
フツーに「大島弓子の作品」だ。
他の作品と、何ら違いはない。
「エッセイ漫画」とゆーよりも、「随筆」のよーなカンジだ。
内田百閒とまでは言わないが…
かなり高レベルの「随筆」だ。

カテゴライズするならば、もちろん「ペットもの」に分類されるんだろーが…
この作品が、他の作品と決定的に違うのは、「視点」だ。
「切り口」と言っても良い。
通常、「ペットもの」を描く場合…
「こんなトコが可愛い!」と動物の習性を描いたり、
「ペット可愛さのために、こんなコトまでしちゃいました~!」と暴露話で盛り上げるワケだが…
つまり、あくまでも対象となるペットが「主」なのだ。
が、この作品は、大島弓子が「主」なのである。
全編にわたって猫は登場するし、様々なエピソードも紹介される。
が、描かれているのは、大島弓子自身なのだ。
大島弓子が何を考え、何をしたか?が描かれていて、猫はその話の起点に過ぎない。
哲学的と言ったら大袈裟だが、「大島弓子かく語りき」みたいな…
これは、大島弓子の、深い思索を綴った作品なのだ。
たまたま、その傍らに、グーグーとゆー猫のパートナーがいた。
そーゆうコトだと思う。

個人的には、「ウンチハイ」が面白かった。
なさいますのだ…
にゃー笑ったぜ~。
んるるっ
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グーグーだって猫である

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by inugami_kyousuke | 2009-02-16 20:27 | コミック