人気ブログランキング | 話題のタグを見る

犬神狂介の【狂人日記】

kyoujin.exblog.jp ブログトップ

包帯クラブ

【45点】

天童荒太原作、堤幸彦監督、森下佳子脚本、石原さとみ主演作品。
冒頭の5分間が、実に秀逸だ。
素晴らしい!
この作品のテーマが集約されている、と言っても過言ではない。
最終的に、テーマを深く掘り下げていないため、単なる青春モノとして、不当に低い評価を与えられているよーに思う。
言っておくが…
この作品は、決して、「みんなで包帯を巻いて、心の傷が治って、良かったねっ!」なんつー包帯ごっこを描いた「さわやか青春物語」じゃねぇ~。
そこまで浅い作品ではない。
堤監督が、こーゆう作品も撮れるとはビックリだった。
おそらく、脚本も良かったのだろーが…俺が見た堤作品の中では、この作品が一番良かったと思う。

よーするに、ココで言う「包帯を巻く」とゆーパフォーマンスは、「痛いの痛いの、飛んでけ~!」と同義なのだ。
それ自体には、大した意味はない。
要は、「気の持ちよう」なのだ。
ワラ(石原さとみ)、タンシオ(貫地谷しほり)、リスキ(佐藤千亜妃)、テンポ(関めぐみ)…
かつて仲良し4人組みだった4人は、進学や就職によって、バラバラの道を歩んでいた。

この物語は、「共感力」の物語だ。
一見、付和雷同とゆーか…
「自分の考えがない」とさえ見えるタンシオの人並み外れた強い共感力が、
まず、ギモを呼び寄せ、
次に、ワラを巻き込み、
更にディノ、リスキ、テンポをも引き寄せ…
バラバラだった人と人を、次々に結びつけてゆく。
「包帯クラブ」とゆー偶発的なイベントが求心力となって人を集め、
タンシオの「共感力」が、接着剤のよーに人々を結びつけて行ったのだ。

人は誰でも、それぞれに「大切なもの」=「守らなければならないもの」を持っている。
自覚している、いない、に関わらず…。
そして、人々は、日夜、休むコトなく、それらを守り抜くために、みな必死に戦っているのだ。
自然界に於いては、「生存競争」と呼ばれているモノが、人間界に於いても、カタチを変えただけで、何ら変わるコトなく、日々、行われている。
この世の如何なる戦いであれ…
およそ戦いとゆーモノは常に非情だ。
その戦いに於いて、「敵」に情けをかける、とゆー行為は、ともすれば自らの死を招きかねないくらい、極めて危険な行為でしかない。
ひたすら「敵」を倒すこと。
「敵」につけ入るスキを見せないこと。
そんな戦いに明け暮れていると、いつしか、人は、本当に大切なものを見失ってしまう。

他人のためだろうと、自分のためだろうと…戦っているとゆー事実には、何ら変わりはない。
大切なものを守るための戦いが、戦いのための戦いへと、いつしか変質してしまうのだ。
そして、ふと気が付けば、いつの間にか、自分自身が他人の大切なものを奪っている。
他人を傷つけ、略奪している。
ソレこそがこの世で起こっているコトの全てだ。
兄弟ゲンカから戦争まで…
あらゆる人と人のいさかいの根っこは、等しくココにあるのだ。

この作品は、そーした世界に対する、1つの解である。

モラトリアム。
冒頭の、ワラが空を見上げるシーンに象徴されるよーに、
この作品は、いったん立ち止まって、人生の意味を、自分の価値観を、問い直す物語だ。

そして、彼等が見つけた答えは…
「他人の痛みに共感し、痛みを分かち合うコト」だった。
「包帯を巻く」とゆー行為は、単に1つの手段に過ぎない。
「戦う」のではなく、「分かち合う」コト。
「奪い合う」のではなく、「与える」コト。
ほんの少しずつ、他人を「思いやる」コト。
たったそれだけで、世界はガラリと変わるのだ。

ただ…
ザンネンだったのは、ディノは刺された友人には罪の意識を覚え、自傷行為を繰り返すほど苦しんでいたのに、もう1人の、刺した方の友人のエピソードに関してはあまり深く描かれていなかった点だ。
ラストシーンでも、ディノは報道カメラマンになって、戦場で「傷ついた人々」を撮影していた。
非常に唐突なカットだ。
ディノの意識の流れが、ほとんど描かれていないため、「後は自分で考えろ」みたいな…
意図的に投げっ放しにしたのだろーが、やや掘り下げが浅く感じてしまう。

まずは「知る」コト。
知らなければ、何も始まらない。
だから、ディノは、「知らせる」コトを自分の職業として選んだのだろう。
1人でも多くの人に知ってもらい、彼等の痛みを「共感」してもらうために。
ディノは、自らの生命を、そのために使うコトを選択したのだ。
彼は、「ロバート・キャパのよーに生き、キャパのよーに死ぬ」とゆーコトなのだろう。

「勝ち組負け組」とゆー論理は、「殺す側の論理」だ。
本当は、人生に勝ち負けなどない。
比較など無意味だ。
価値観とは、本来、絶対的なモノで…
相対的なモノではないからだ。
最終的には、「自分が納得できるか、否か?」に尽きる。

世界を1つのパイにたとえる考え方がある。
パイの大きさは決まっている。
従って、そのパイの配分こそが、この世で最も価値のあるコトなのだ。
勝つコト。
勝ち続けるコト。
そして、誰よりも多くパイを独り占めするコト。
ソレが彼等の価値観だ。
そのためには、彼等は手段を選ばない。
彼等にとっては、ソレこそが人生の意義なのだから。
彼等は、「勝ち」「負け」の二元論で生きている。
彼等にとって、人生は、「勝ち」「負け」を競うゲームだ。
そして、彼等にとって、「負け」は死に等しい。
勝ち続けるコトが、すなわち「生きるコト」なのだ。
だが…
「勝つ」コトは、実は「奪う」コトであり、
「負ける」コトは、「奪われる」コトなのだ。

つまり、もしも本当にパイの大きさが決まっていたとしたら…
誰かがパイを独り占めするとゆーコトは…
ソレは、すなわち、他の誰かが「食べられない」コトを、
もっと言うと「飢えて死ぬ」コトを意味する。
誰かが得をするとゆーコトは、すなわち他の誰かがソンをするとゆーコトなのだ。

自分が食べない分のパイが、なぜ必要なのか?
俺には、理解出来ねー。
他人を殺してまで、手に入れたパイは、一体、どんな味なのだろうか?
パイが小さかったら、単純に、みんなで分け合えばイイじゃね~か!?
椅子とりゲームで、椅子が人数より少なかったら…
2人ずつ、詰め合って座れば済む話なんじゃね~のか!?
そもそも、「奪い合う」ヒマがあったら、もっとポジティヴに、「パイそのものを大きくする」方法を考えるべきなんじゃね~のか!?

全編を通じて、心に染み入るよーな
ルールールルル~、ルールルッ…!!
は、ハンバートハンバート。

あ…「リストカップ」って打っちゃった!
by inugami_kyousuke | 2008-04-19 00:25